Cafe-Rekisikanのブログ

玉島歴史館喫茶室でコーヒーを飲みながらおくつろぎを

農業用水の確保は今も昔も苦労する

いつの時代でも水争いは絶えなかったようで・・
玉島村と岡山藩領の隣村の庄屋たちとの間で七島のうちの1島を譲り受ける代わりに高瀬通しの水を供給する約束が出来ていたが、岡山藩の郡奉行の横槍で破談になった。何と心の狭い役人だろうね、お陰で岡山藩領の村は用水確保に大変苦労したそうな。(新玉島歴史散歩 第6話「玉島平野の水争い」より)

北前船の水夫と玉島湊の人々

9話・10話では北前船入港の様子が生き生きと描かれています。
このときは綿問屋ばかりでなく、飲食店・風呂屋遊郭などの稼ぎ時。
その様子が手にとるように浮かんできます。こうやって遊んだ水夫たちは
最終地の大阪で船を降りてふるさとの北陸へ戻っていきます。春先までの短い休暇を
家族とともに過ごした後、再び大阪へ戻っていったのです。歴史の中には一人の
武将や偉人・文化人が登場しますが、こういった無名の庶民が過酷な生活の中で
明るく生き抜いていたことも歴史を支えるファクターのひとつなのでしょう。

「新玉島歴史散歩」シリーズ 第6話から第10話を掲載

今回は「新玉島歴史散歩」の第6話から第10話を掲載しました。
玉島の歴史の中でもハイライトとも言える時代です。
干拓がほぼ終了し、それに伴って入植者をまとめるための
神社や田畑を塩害から守る水門など様々な施設が完備されていきます。
更に問屋街として役割を担う新町の形成、北前船の寄港地として
繁栄の時代を迎えます。また同時に水争いなどの問題も抱えることになるのです。
詳しく知りたければ「新玉島歴史散歩」へ。

玉島の名水(続編)

前回の記事で玉島には真水の湧き出るところが数箇所ある、と書きましたが
これを読んだ読者の一人から貴重な情報をいただきました。それは渡辺先生の
著書「玉島むかし昔話」の中に収められている資料で、それに依ると
名水は柏島に5箇所、乙島に3箇所の記述があります。具体的な位置は地図を
参照してください。

柏島
① 眞川  玉島中 老人憩の家付近
② 不老川 海徳寺登り口 太田功氏宅前
③ 浜の川 平尾 山本酒造裏通り北西角
④ 天神川 天満町 天満宮 裏山
⑤ 大井川 大井 大井池のほとり

【乙島】
A 泉谷大井戸 泉谷大池の東岸奥
B 旭日の井戸 水溜南斜面
C 夕日の井戸 水溜北斜面

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源平合戦当時の島の形と推定されます。二点鎖線は現在の陸地を表しています。

また、源氏・平家それぞれの軍船配置図は次のように推定されます。

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歴史館に新しいトピックを公開しました

今回から渡辺義明先生の著書を元に新しいシリーズ「新玉島歴史散歩」を公開していきます。先の大田先生の「玉島歴史散歩」とテーマ的に重なっているところが多いのですが、歴史とは人によって見方が違うものです。そこのところがまた面白いと思います。そういった観点からも楽しんでください。

さて今回は第3話の源平の戦いの巻についてお話しましょう。

平家が勝利した唯一の戦いが水島合戦です。水島というと工業地帯が連想されますが、ここでは玉島の南、乙島と柏島の沖合で起こった海戦なのです。先日源氏方の本陣があったと伝えられている常照院を訪ねたとき本陣跡を示す碑を確認しました。しかしそこへ行くまでの案内板が無く、細い道をグルフル巡ってようやくたどり着いたのです。折角の歴史的記念碑なので道案内板くらいは整備してほしいものです。地元の人に訊いても知らない人が結構いますね。

現在は源平大橋という橋がまたがっています。もし源平時代にその橋があれば、そこから合戦の様子が目の当たりに見られたのではないかと想像すると何やら楽しくなってきますね。

さて本文にもありましたが、水島の「水」は真水が湧き出る島ということですが、乙島も柏島も小さな島なので本当に水が湧き出るようなところがあったのか、不思議ですね。今でも湧き出ているのか調べてみたいと思いませんか?

第1部 玉島歴史散歩の後半をお届けします

寒くなってきましたが風邪など引いてませんか、今日11月15日、
第1部 玉島歴史散歩の第5話~第8話(最終話)をお届けします。
今回は干拓後の玉島港の繁栄と衰退についてお話いたします。
干拓完成後は近隣から多くの者が入植しました。元禄の頃には港もたいそう賑わって、
40軒以上の問屋が新町堤防上に立ち並びました。
その後は様々な原因が重なって次第に衰退していったのです。
詳しくは「玉島歴史館」を御覧ください。

高運寺の報恩講

先日、両親の菩提寺である高運寺の報恩講のお参りに行きました。報恩講というのは浄土真宗で最大の行事なのです。教祖である親鸞上人の命日に合わせて坊さんや門徒が集まってお経を唱えたり法話を聞いたりする年の暮れに行われる集いなのです。
コロナの影響で午前午後に分けての集会になりましたが、急な坂道にもかかわらず大勢の門徒衆が参加してました。お題目の唱和の後、現住職の息子さんから法話をいただきました。まだ慣れてないところもありましたが、若々しさがでて好感が持てました。寺を再建して数年しか経っておらず立派な本堂ですが、歴史は古く確か400年は続いていると記憶しています。